Home>学生>あれ、教科書が昔と違う!?歴史編1
学生

あれ、教科書が昔と違う!?歴史編1

今はテレビでも空前のクイズブームであり、ある程度の知識を保有している人が輝ける時代となっております。仕事仲間でも遊び友達でも知識の広さをアピールできる人は博識と思われるのでいいこと尽くめです。しかし、そんなクイズの基本となる学校時代のお勉強なのですが、色々と中身が昔と異なってきているのです。今回は昔と違う教科書の中身について歴史を中心に触れていきます。

■鎌倉幕府設立時期が変わりました

おそらく、今の大人たちにとって「1192(いいくに)つくろう鎌倉幕府」という言葉はほとんどの方々が覚えていると思います。おそらく、中高と勉強が苦手だった人でも、この言葉はすらっと出てくることでしょう。しかし、この設立時期がどうやら1192年というのは誤りで、今では1185年という記載になっているようです。中学校や高校の教科書でも1185年と明記しています。

何故1185年になったのかというと、この年は源頼朝が実質的に朝廷から日本の支配を認められた年なので日本国総追捕使・総地頭として日本全国の軍事関係のトップに君臨した年なのです。全国に守護・地頭を置ける人なので権力者として最高峰になったのは確かと言えるでしょう。そのため、実質的に幕府が設立した年と考えられるようになったので、変更となったようです。

■ならば1192年とはいったい何だったのか

しかし、この1192年が完全否定されているわけではありません。この年が今まで鎌倉幕府が設立されたと言われ続けたわけは、源頼朝の征夷大将軍任命があったからです。征夷大将軍は武家のトップになった証でもあり、幕府を設立できる人間として認められたという証明にもなるのでこの年が使われていたということになります。

しかし、この征夷大将軍という地位は1190年に任命された右近衛大将よりもずっと低いもので、頼朝が朝廷から軍事権力を奪うために任命させた官位なのです。1190年に任命されたこの右近衛大将は天皇の近衛兵という非常に名誉ある職ではあったのですが、頼朝からすれば都合の悪い立場だったので10日で辞任したと言われております。

■ならなんで変わったの?

この変わってしまった最大の理由が、源頼朝が幕府設立を宣言しているわけではないというところにあります。もともと、鎌倉幕府という言葉は後世の人たちが勝手につけた名前なので、本人に聴かせたところで「なんだそれは?」の一言で片づけられてしまうことでしょう。

つまり、設立宣言をしていないので、幕府が存在するに値する行動や地位等を持っていた時期こそが鎌倉幕府設立の年という認識となっており、その時期が1192年よりも1185年の日本国総追捕使・総地頭と認められた年ではないのかという意見が多くなったことで、歴史の教科書も変わってしまったのでしょう。

仮に何らかの試験でこの問題が出たとしても、教科書に乗っている年号を書くのが正解となっているので、今の人たちも1185年と書かないと不正解となってしまいます。古い教科書と今の教科書は色々と違いますので、クイズ番組が好きな人は違いを覚えておきましょう。