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坂本龍馬の暗殺者は誰なのか?

教科書ではざっくりとした紹介で終わってしまうことの多い坂本龍馬ですが、明治維新の時代には英雄と呼ばれる人材が多くいて、憧れの対象となる方々が大勢います。その中でも学生さんに人気なのが坂本龍馬でしょうか。しかし、教科書ではこの坂本龍馬の暗殺の真相については触れていないことが多いのです。今回は、現代日本における坂本龍馬暗殺の犯人は誰が有力と考えられているのかを記載していきます。

■坂本龍馬を狙う勢力が多すぎる

坂本龍馬は大政奉還の立役者であり明治維新における英傑の一人で超が付くほどの人気ものです。しかし、1867年12月10日に坂本龍馬と中岡慎太郎と山田藤吉の3人が京都河原町近江屋井口新助邸において暗殺されました。これを世にいう「近江屋事件」と呼ばれているものであり、この事件を知っている人は非常に多いと言えるでしょう。

坂本龍馬は薩摩藩の宿舎だった寺田屋を使っていましたが寺田屋事件で襲撃されたため拠点を移して行動しておりましたが、薩摩の吉井幸輔が土佐藩邸が無理なら薩摩藩邸を進めていたので、もし薩摩藩邸を使っていたのならこの事件は起きていないという説も流れております。

そんな坂本龍馬は改革派であった人間ではありますが、その活動内容の過激さに危険視する声は非常に多く、各所から恨みを買っていたのです。もちろん、各所で協力者はいたのですが、それと同数以上の敵がいたと認識してください。

その証拠に、坂本龍馬暗殺の真相がわかっていない時には、可能性がある人物や組織というと薩摩藩・土佐藩・紀州藩・新撰組・京都見回り組・商人グラバーと色んな説があるのです。多すぎると思うのが普通だと思います。

■今最も有力となっている説について

今最も有力となっている説は京都見回り組が実行したというものです。新撰組という説もあったのですが、幕府から取り調べを受けた際に関与を否定しており、証拠も見つかっていないのです。

そのため、様々な状況や推察から実行する可能性があるのが京都見回り組とするのがしっくりくるのです。まず、坂本龍馬は寺田屋事件においてピストルで役人を二人殺しており、幕府側からも龍馬は反幕府勢力においての危険人物として見られるようになりました。

その後、勝海舟と並ぶ開明派の幕臣である大目付の永井玄蕃のところに何度も遊びに行っており、自分にとっての大親友といった表現すら残していたと言われているのです。大政奉還はすでに設立していたことと幕臣であり位も相当高い永井玄蕃と親しかったことから、暗殺の危険性が減ったと考えていたと考えていたのではという推測も流れております。

この龍馬暗殺を指示したと言われているのが会津藩主の松平容保なのですが、具体的に計画したのは京都見回り組の剣豪である佐々木只三郎の実の兄である会津藩士の手代木勝任です。この兄は非常に優秀で、京都守護職を動かしていた人物であり、死の間際にすさまじい証言を残しております。

それは、「龍馬は弟の佐々木只三郎が殺した」と語ったと言われているのです。坂本龍馬や中岡慎太郎は剣豪としても有名であり、弱い人間では倒せないと言われておりましたが、佐々木只三郎も神道精武流を学んだ猛者であり幕府講武所の剣術師範クラスだったとのこと、こう考えると可能性は高いと言えるでしょう。