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本能寺の変の真実ってどうなっているの?

歴史好きの方でも、そうでない方でも絶対に知っている歴史の転換点は本能寺の変です。あそこで織田信長が打ち取られていなかったら歴史は大きく変わっていたことでしょう。しかし、この本能寺の変には色んな説が入り乱れており、真実がどれなのか解り難い状態になっているのです。今回は学生さんなら間違いなく習う本能寺の変について解説します。

■本能寺の変は明智光秀が起こしたが…

1582年の6月21日明智光秀が京都の本能寺に宿泊していた織田信長を襲撃したのが、日本史史上最大のクーデターと言われている本能寺の変です。このクーデターを起こしてしまった理由は上司にいじめられていることで長年の恨みが溜まってしまった結果と言われておりますが、これ以外の説も大量にあるのです。

まず、実しやかに言われている説が黒幕は別にいるという説です。黒幕がいたのになんであんなにあっさりと打ち取られたのかというと、その黒幕の援軍が来なかったからとか約束を破ったから結論に結びつきます。この中でも割と多い説が四国の武将である長宗我部元親や、足利義昭や朝廷といったところでしょう。この辺りはちょっと歴史に詳しい人の場合は難なく想像できると思います。

これ以外の黒幕説としてかなりの方々に支持されているのが豊臣秀吉と徳川家康です。天下を取ったどちらかが策謀して織田信長をはめるために明智光秀をそそのかしたという説を結構信じている人はいます。

■黒幕説で有力と思われているのはだれか

これらの黒幕説で最も可能性があると言われているのが豊臣秀吉です。まず、朝廷や足利義昭はちょっとした人たちを動かす力はあったかもしれませんが、強力な武力や武将及び戦力を集める力は不足しております。最初から多くの方々に密使を送っており秘密裏に密約を結んでいるのなら話は別ですが、そういった情報は出ていないので、朝廷や足利義昭では無理でしょう。

長宗我部家もかなりの戦力がありましたが四国から緊急的に明智光秀をヘルプに行ける位置にいるかと言われたらかなりきついと思います。徳川家康はこの時京都見物をしており堺でお買い物をしています。しかもこの時ほとんど兵士を連れていなかったので、慌てて緊急的に帰っております。一両日程度で京都から堺に行くことができますので、殺される可能性が非常に高かったのです。世にいう「伊賀越え」をはたして逃げおおせており、本能寺の変が起きたばかりの家康では配置は良かったのですが戦力的には不可能でしょう(むしろ狙われていただろうし、逃げおおせたのが奇跡という人もいます)。

こうなると、毛利攻めを任されておりある程度の戦力が整っていた秀吉が消去法で黒幕説が当てはまることになってしまうのです。実際に一番お得な思いをしているのは豊臣秀吉なので、黒幕と言われてもしっくりくるでしょう。

他には認知症だったとか自律神経失調症だったなんて言うひどい説までありますが、黒幕説の方がまだしっくりくるのではないでしょうか。