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あれ、教科書が昔と違う!?歴史編5

研究が進めば進むほど新たな発見ができるのが歴史です。歴史研究家が新たな発見をするたびに教科書が更新されるようになり、新たな観点からの味方の方がしっくりくると受け入れられるごとに、教科書が一新されていきます。今回もその5として皆さんが知っている教科書の知識から今の教科書との違いを指摘していきましょう。

■聖徳太子の呼び方はもう古いらしい

日本の歴史の教科書には様々な歴史上の偉人が記載されておりますが、その中でも最初のほうに覚えることになるのが卑弥呼・聖徳太子・中大兄皇子といった人物でしょう。ここら辺の名前はいつまでたっても忘れることは無いと思います。

そして、聖徳太子は画像付きで必ず紹介されるので、画像付きでどのようなことをしたのか覚えたと思います。例えば問題で「推古天皇のもとで蘇我馬子と協調して政治を行い、冠位十二階17条憲法を定める等の重大な役割を担ったこの画像の人物は誰」という問題が出たら30代以降の方々は99%「聖徳太子」と答えられるのではないでしょうか。文章が無くても行ける人が多いと思います。しかし、現代の教科書では聖徳太子という記載はされていません。

例えば、1988年の教科書では推古天皇が甥の聖徳太子(厩戸皇子)を摂政として国政を担当させたという記載があったようですが、今の教科書では推古天皇の甥である厩戸王(聖徳太子)らが協力して国家組織の形成を始めたといったように使われ方が異なっているのです。聖徳太子ではなく厩戸王や厩戸皇子という呼び方が強調されているということになります。

この最大の理由が聖徳太子という名前が死後100年後くらいから呼ばれていた名前だからです。いわゆるこれは「厩戸皇子」に敬意を表す「贈り名」という扱いであって、尊称なので本名ではないということなのです。つまり尊称で呼ぶのか本名で呼ぶのかという議論になったのですが、本名で伝える方が正解であるという意見のほうが強くなったので、聖徳太子という呼び方ではなく厩戸皇子や厩戸子と呼ばれるようになっております。

■聖徳太子が消えるかもしれない

このように呼び名が変わっている程度ならまだ納得するのですが、一説には聖徳太子は実在していなかったのではないかという声があり、歴史書から消える可能性すらあるのです。というのも、厩戸皇子が実在したのは確かであり、それらの記述は一式揃っているようエスが、聖徳太子と同一人物であるのかは疑問視されているのです。

先ほど紹介したように聖徳太子というのは厩戸皇子の尊称として扱われていますが、厩戸皇子の実績と聖徳太子の実績がかみ合わないと言われております。厩戸皇子の実績で十七条憲法と冠位十二階は確実だと言えるようですが、他の部分がどうも記載としては薄いようです。

そのことから、聖徳太子は実在しない可能性があるという説が広がっており、何年か後に立証できるデータが足りない場合は最悪聖徳太子という名前が教科書から消えてしまうかもしれません。