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本能寺の変の黒幕は豊臣秀吉なのか

本能寺の変は色々とおかしなところが多すぎます。特におかしいと言われているのが、織田信長の死体が見つからなかったことや、織田信長を倒した後の明智光秀があまりにもずさんな行動をとりすぎていることです。そのため、明智光秀にとっては予想外の何かが発生していたと言われております。今回は、本能寺の変の真の黒幕と言われている豊臣秀吉のその時の行動を探っていきます。

■中国大返しは有名だが…

本能寺の変のエピソードに合わせて非常に有名なエピソードが中国大返しです。もともと、織田信長は豊臣秀吉が毛利と戦をしていた、大兵が水責め中の高松城に大群が攻めてきたために援軍を求めたのが原因であり、ここで援軍として読んでいなければ織田信長は安土城でゆっくりしていたことでしょう。

ただし、秀吉から「大軍きたから援軍ください!」という手紙が届いたのは5月15日であり毛利元就の次男である吉川元春と三男の小早川隆景が1万5千の兵士を連れて到着したのは5月21日なので時期的にずれがあります。備中高松攻めは水責めで勝利したことは有名ではありますが、水責めは時間がかかればかかるほど実行者側が有利になるものなので、6日もずれがあれば状況は激的に変わっているはずです。この時点で高松城は落城寸前だったと言われております。

こんな状況になっている状態で「信長様ヘルプ!」と豊臣秀吉が頼むのはおかしいのではないでしょうか。個人的にはこの援軍が無くても高松攻めは成功していると思っております。この時点ですごく怪しいと皆さんも感じると思います。

秀吉が信長を出陣させることで花を持たせるというゴマすり説もあるにはあるのですが、それぞれの持ち場にいる武将が激戦中のこの時代にゴマすりのために呼ぶのはさすがに時勢が読めない愚か者扱いされてしまうのであり得ないと思うのですが…

また、信長が死んだという情報を聴いてすぐに撤退を開始したのですが、この情報が入って移動を開始したのは3日後と言われており、準備期間はほとんど無かったことが分かります。駅に馬を置くスタイルで高速で帰ったと言われておりますが、3万の軍勢を1日半で駆け抜けたと考えるとその準備期間ではさすがに足りないでしょう。

水軍を使って海路で運んだという説もありますが、運搬用の船と戦用の船では編成も異なっており輸送に不向きです。準備期間の短さを考えると軍船しか用意できていなかったはずなので海路でもまともな運搬はできなかったはずです。

毛利家側も秀吉が撤退しても追撃しなかったのですが、そののちに五大老に当主の毛利輝元と小早川隆景が入っていることがあることから、追撃しなかった理由は密約があったとすら言われているのです。

ちなみに、信長の遺体を見つけていない光秀は首級を公表することができなかったのですが、秀吉はそのことを知っていたのか「信長は生きている」という嘘情報を流しており、秀吉は遺体を発見できていないことを最初から知っていたとすら言われているのです。

これらの情報を集めれば集めるほど、秀吉の黒幕説の信憑説は高まります。あくまで状況証拠に近いものではありますが、これだけ色々と推測できてしまうと、リーチがかかっている気がしてならないのですが、皆さんはどう思いますか。