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あれ、教科書が昔と違う!?歴史編2

歴史というのは色々と覆るものではありますが、大きく覆るようになってしまいますと今まで習ってきたことまでも変わってきてしまうようになります。つまり、今まで習ってきたことが一部無意味になってしまうのです。そこで、「あれ、教科書が昔と違う!?歴史編2」として、大きな歴史の教科書の変更点を紹介します。

■大化の改新に関して色々と変わっているようです

日本史の勉強をすることで必ず登場する歴史話の一つに「大化の改新」というものがあります。この大化の改新とはざっくり行ってしまうとこのように覚えていたのではないでしょうか。蘇我入鹿と蘇我蝦夷親子を中大兄王子(天智天皇)と中臣鎌足が誅殺したことで蘇我氏本宗家を滅ぼしたというものです。その後に即位した孝徳天皇が「改新の詔」を発令したので、ここまでを一セットとして覚えている人も多いと思います。

しかし、この考えが実は間違いであり、この蘇我氏が誅殺されたのは「乙巳の変(645年)」と呼ばれるものであって、本質は飛鳥時代の孝徳天皇2年、つまり西暦646年に発布された「改新の詔」が主体なのです。つまり、「改新の詔」を発令されたことが政治的な改革ということになるので、正しいのは645年ではなく646年と考えられるようになり、教科書にも大化の改新は646年に行われた誅殺で始まった政治改革という教えになっているのでしょう。

もちろん、現代でも蘇我氏の暗殺である「乙巳の変」が政治改革のスタートとなっているのだから、大化の改新はそこからではないのかという意見もあるので、色々と議論中ではあるようですが、教科書を管理運営するサイドから見ると646年のほうが正しいという認識になっているようで、年代が1年ほどずれ込んでしまったようです。

■大化の改新なんてなかったという説もある

大化の改新は中身を覚えていなくても年号と共に皆さん何となく覚えている歴史の一点なのですが、一説にはこの改革そのものが実はなかったのではないのかという人もいるのです。この大化の改新に説に異を唱える人曰く「和化漢文が一般化するのは670年ごろのことなので事実としておかしい」というものがあるのです。

それ以外にも「律令制度が我が国で本格化するのは、白村江の戦(663年)で敗北し、国内の改革を痛感するようになった天智天皇の時代」という証言があり、大化の改新が本格的に行われているのなら律令制度が646年や645年に行われているはずがないといっているようです。

ようするに、政治的意図で天智天皇を格下げさせるために、中大兄皇子をクーデター首謀者としての位置づけを無理やりさせたのではないのかということなのですが、この説が事実だとすると教科書の一部分が大幅な改変が必要になるでしょう。外圧による敗北で日本という国そのものに危機感が生じ国家改革が急務になったと考えることもできますが、色々と新しい検証や説が出るたびに、コロコロと歴史の教科書が変わってしまうのは色々と困ってしまいます。