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織田信長の死因ってわかってないの?

戦国時代や明治維新という時代を好きな人は非常に多いのですが、教科書だと非常にあっさりと終わってしまうことがあり、資料的にも物足りないと感じる人も多いでしょう。そのため、掘り下げる人もしばしばいるのですが、そのうち不思議な真実に行きつくことがあります。そこで、今回は歴史ミステリーとしてもよく使われる織田信長の死因について考えていきます。

■織田信長の遺体は見つかっていない

織田信長の死因がミステリーとなっている最大の理由が遺体を発見することができなかった点にあります。歴史をあまり興味がない人にとって、遺体の重要度はそこまでわからないかもしれませんが、明智光秀にとって織田信長の死体を見つけるのは絶対であり、見つけられなかったのが痛恨と言われているのです。

まず、織田信長を襲撃した以上織田信長の首を発見しないと、殺害したと吹聴したとしても信じてもらえない可能性があり、この死体が見つからなかったという真実が対外的な敵に伝わってしまえば、「実は生きている」という噂が流されてしまうことで自陣営の指揮に影響してしまうでしょうし、後手後手になってしまう可能性が広がってしまうのです。

有能な復讐者が信長が生きていると噂を流してしまうと味方を増やされ負ける可能性が増えてしまう状態だったのですが、それらを分かったうえで見つけられなかったのは痛恨だったのでしょう。

ルイスフロイスの記録からは織田信長は腕に銃弾を受けて矢を受けながらも戦い続けたが、最後は自らの部屋に戻って切腹し、そのまま焼死したとされております。他の説でも遺体が見つからなったという文献があるので、遺体が見つからなかったという説が一般的となったのです。

しかし、炎に紛れたとしても焼死体が見つからないのはおかしいと言えるでしょう。ルイスフロイスの記述でもあくまで人から聞いた話を記述していると前置きして「毛髪や骨を残さず灰燼に帰した」と記載しており、焼死体も残っていなかったとされております。

■焼死体すらないことから出たミステリー

焼死体すら残っていなかったという情報しか残っていないので、歴史研究家の多くが「ならば死体はどこいったの?」と考えるようになりました。そこから一気に情報が派生していき「実は本能寺で死んでいないんじゃないか?」という説まで出始めました。

焼死体が残らなかったという説には、爆薬を大量に仕掛けておいて火薬で爆発試算したという説があるのですが、当時の文献で本能寺の変で大爆発したという記述は見つかっていないのでこの説はそこまで信憑性は無いようです。

そのことから、「実は地下通路があってそこから脱出していたのではないのか」とか「死体はあったのだが家臣がどうにかして持ち出したのではないのか」という説がいまだに残っております。もちろん、地下通路があって生き延びたというのは後世の人たちが面白半分で考えたフィクションと多くの方々は捉えているのですが、真実は闇の中なのですべてを証明する手立てはありません。